対談(助六)

宇野信夫VS三遊亭圓生

真打問題&協会脱退騒動

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圓生
えー、これから、えー宇野先生と私と対談という...
えー、どういう事になりますか、まるっきり何を話しをするか判らなくて二人ともここへ突如として現れたというわけで...
どんな話題になりますか喋ってる奴がまるっきり判らない、
えー、そのおつもりで呆然としてお聞きを願います。
うーん、どういう事を聞きましょうかな.....

宇野
えー、そのー、この会の成り立ちを申し上げますと、
えー、私も「宇野信夫の世界」なんていうそれこそ だいそれた事は考えたことも無いんですけれども、
ある私の友人が、圓生さんを非常に尊敬してまして...
で、幸田弘子さんという人の朗読を圓生さんとやらしてみたいみたいなんて事を云ってるから、そんな事したって素人がそんな事しても具合悪かろうと...
で、ブロデューサーを紹介するからつって、この圓生さんのよく独演会をやる人を紹介したわけです。
そうしたら、あるその新聞社のお方が朗読の世界として圓生さんに人情噺と幸田さんになんか朗読してもらってやったらいかがですか?って事になって、
それからこういう会になった訳です。
まあ圓生さんにはご迷惑かもしれませんけども、そんな訳でね、今日は別にその言い訳じゃないんですけれども、こんなところへ私は芸人じゃぁありませんから、出る柄じゃありませんですけれども、まあ引っ張り出されまして、
えー、圓生さんもね、今 時の人ですから...
えー、その事について、えー、私が質問しますから...

圓生
なんか新聞記者の前で話すようですな。

宇野
ですからどういう事になるんだかその.....

圓生
ええ、まー今度の事件と申しますとね。
えー、24日にインタビューしてまたインタビューされる...
えー、まあ、だいたい云えば、うー、意見の相違という事ですが、
ただ意見の相違というような単なる事ではなくしてです。
んー、非常に近頃乱暴になりましてね。
昔はまあ生涯前座という人がありました。
それから あの その上の段階が我々の方では二つ目と申します。
えー、前座という雑用から離れまして、まあ自由な身というとおかしいですが、 掛け持ちも出来る、こちらの席からむこうの席へも行けるという身分になり、 それからさらに芸が上達をして、えー、お客様にも受け入れられるようになり、 席亭と申しますと、あのー、今のなになに亭というようなものの主人公ですね、 ご主人、で、その人がまあお客様の代弁人というような事で、「あの人も、 もう看板にしたらどうだ」、看板というのは我々でいう真打でございますね、 それにしてはどうかというような...お客様からの要望があり、仲間でも認めて、 「それでは」と言うのでなるという...
それがまあ本当の真打なんでございますが、
近頃はだいたい真打になりますのに大変なお金がかかるんですねー...
精養軒であり、あるいはまた帝国ホテルであるとかいう....

これには全てのものが上がっておりますから、あの撒き物と申しまして、だれそれの口上の撒きモン が出るとかその師匠...私の弟子ならばこの間、円丈がやりましたけども、 やはりお引き立てを願いたいこれこれの席を回りまして、 「いつのいっかから真打に昇進いたしました」という、あのちゃんと撒き物、 それから手拭をつけまして女扇、男扇が付いて...
えー、その家によりましてはお菓子の折りを付けるとかいろんなもの...
それはまあ行く先で決まりますけど、 手拭、扇、刷物これがだいたいまぁつくというのが常識でございます。
それを持ってまあお客様のほうからその当日はご祝儀を持ってきてくだすって、 そこで披露宴をするというわけで
これは、今、大変お金が...まあかけようと思えば馬鹿な金がかかるわけで、ところが昔のほんとうの真打てえものを聞きますと、そんなような派手なもんではなくして、
あたくしなぞ真打になりましたときは、そうですねー、んー、たしかタクシーに乗りましてね、 おやじがついて私とそれからあと弟子でしたかなー、
誰か一人か二人付きましてそれであのお菓子の折りにまぁ手拭だけこう載せましてね、
扇なんてのはこしらえなかった。

それで、回ります。お席亭とそれからおもだった幹部の噺家のところを、それからお客先とかいう所を 回りまして、それで おしまい なんでございます。
それからあとは、お客様から寄席の方へご祝儀を持って来て下さる。
あるいは あの後幕てえのをいただきましたね、あの暴れ牛という.....
神田なら神田、田町青物市場とかあるいは魚河岸だとかその各地によっていろいろ後幕をお客様から下すって、総見というものをいたしました。
いまでいう団体見物でございますね。
切符を何百枚とか売って下すって、お客様方が寄席へ来てくださるという.....
えー、それらはまぁ、ごく派手な方で私の師匠でございます四代目の橘屋円蔵。
品川に住んでいたから品川の師匠といいます。

私の師匠も大変出世の早い方で、明治20年に噺家になった...
四代目三遊亭圓生の弟子になった..
それで、明治30年でございますか、日本橋の伊勢元という、今あの三越、ライオンがこういますね... こんなんなって...どんなんなったって、まあライオンはライオンですが、あすこの前ところに横丁がございます。
入りまして右っ側に そうっすね、家数5,6軒...もう少し...5,6軒でしたね、日本橋倶楽部が ございますね、あれのもう2,3軒先だったかな?とも思うんですが、えーよく記憶にございません... 確かあすこんところです。
そこに伊勢元という席が...で、これが当時やはり東京でも指折りな席でございます。
そこに師匠が出て真打になったという...
ところがお客様が見て噺は良いけれども、どうも いかにもナリがひどすぎるってんですね。
貧乏でね、こりゃ、もう客席から見ても判るような、実にどうもみすぼらしいナリで、それでどうも、 良いけども、あれじゃ あんまりみっともないから、可哀想だから、ってんでその時分に 糸織という織物がある、それの対服をこしらえて圓蔵にやったという...
それが魚河岸の いまわ さんという、居松和三郎(いまつわさぶろう)という本名で問屋さんが ございまして、お客様が「あんまりひどすぎる」ってんで噺家に着物を拵えてやって、 それで披露目もなんにもしない。

で、それが、後に大看板になったという、ですから真打というものは本来はそういうような もんなんでしょう。
近頃は、まあ師匠のほうからどんどん推薦いたしましてね、そしてこしらえる。
えー、推薦するのはそりゃあ良いんですけどね、中にゃあ、ひどいのがありましてね...
こんどなぞは、「あの弟子は家の用を誠に良くしてくれる、私の世話もしてくれる、 だからあれは可哀想だから真打にしたい」と、こう言うわけ....
で、わたくしんとこの弟子も、今度のその推薦された5人の弟子の中に一人入ってるんです。
これが大掃除の手伝いんの時はね、よく働くんですよ......
こうガラスやなにかこう親切に拭きましてね...
だけどね、大掃除の手伝いと、およそ落語とは、あまり関係の無いもの.....
で、あたくしが聴いても、どーも不味いんですねー、ええ、いくら身びいきで聴いても...
これが今出ました円丈と一ヶ月ぐらいな違いなんですけどもねー
まことに良い人間でもあり、可哀想だとも思いますけどねー、でも、どーにもしょうがないですね。
で、そういうのを集めて5人、秋に真打をこしらえる、
えー、それでまあ我々の方は弟子になった順で、 こう、昔は席順といいましたが今は序列とかなんとか云ってますね。
まあどっちにしたって構いませんけどもね、順番がこうあって名前が書いてある。
と、これ、順番に春、秋に5人づつ真打をこさえようという誠に目出度いことで、.......
5年の間に50人真打が出来る.....
えー、どっかに輸出でもするのかと思って.....ねー..噺家を..えへへ

宇野
それ、やっぱり...今ちょっとお言葉の中ですけども、芝居がそうですね。
あの..主役の役者ばかり増えちゃって、やっぱり脇役者がいなくなっちゃったの。
だからあの、芝居が面白くなくなったのは、原因のひとつはそこにあるっていう...
腹を割ってみれば自分が主役をとりたい人ばかりですね、..
で、脇役に徹する人がいなくなっちゃったわけだ.......

圓生
ですけどねー、聞いてみるとねー、みんなその..真打になりたがってるとこういう...
当たり前な話ですよ。「生涯俺は前座でいたいなー」ってんで噺家になる奴は一人もない。
「将来は俺は第一人者になりたい。うちの師匠のような大看板になって噺が上手くなってお客様 からワーってんで、喝采を受けるような噺家になりたい。」ってそれはね、私どもも小さい時から そう思ってる。
誰だってそうですよ、役者になればやっぱり主役になりたいですよね。
「仕出しを持って、通り抜けだけしたいなっ。」てんなぁありませんからね......
相撲さんだってなれば......

宇野
相撲は、そこへいくと勝てば良いんですからね。

圓生
えっ?

宇野
勝てば良いんですから、相撲はね!

圓生
そうです。

宇野
ハッキリしてますね。

圓生
もうハッキリしてる。

宇野
ううん勝てば、だからあんな、まあ良い商売はありませんね、実力。

圓生
ハッキリする。

宇野
ええ、ハッキリすんですね。

圓生
勝負の世界...
ところが、我々の方は、あまりハッキリしないんですね勝ったか負けたか。
けれども、えー、「判らない」と言いますが、とんでもない事で、やはり世間の目は厳しいもんでしてね。
えー、芸が下がってくると、一般に、「あの人はこのごろ不味くなったなー」、上手くなるてえと、「上手くなったなー」.....
えー、それはテレビで聴き、今は寄席へおいでにならなくても、 ラジオで聴ける、なにかの機会でジャと出る...えー、お客様は.....
だからねー、えー、客が判るとか判らないとか云いますがね、
えー、判らないのは自分の芸がヘタだからいけないわけで、だからなしろ、やはり芸人は、 自分の芸を勉強するよりどうにもしょうがない...
誰だってなりたいんですからねー、出世したいのは...
ところが、今度、あまりそのー、乱暴すぎますからねー
まえに20人弟子が真打が出来る...

宇野
やっぱりお客の方にしますと上がる人がみんな真打でね。
「大家」のような顔してね。
やっぱり、そこに二つ目より前座が、二つ目より真打があるところに....みんな真打になっちゃね。
やっぱり上手い人が真打にならなくちゃいけませんね。

圓生
そうなんですね。
でね、聞いてみましてね、どうしてだっ?たらね、この書いてある人達がね、
えー、あたしの言うようにですよ、順に真打になって、えー、二人づつぐらい1年に真打になっていくと、 40何年とか50何年とかかかると....これから先、全部真打になるのに。
だからあのー「可哀想だから早く真打にする」と....それはね、わがままだけの話で、それを聞くお客様の方がよっぽど可哀想だ。 ってんですよね。
金を払って来て、しかも、聞くに耐えない噺を、なんのために噺家の義理を私は聞かなきゃならないんだって、自分金払ってこんな、前に回って聞いてみろってんですよ。
そうでしょ?
で、それをねー、今度はドンドンどんなんでも構わず、もう5人づつ真打にしていくと...
「少なくも、私はプロだ。」ってそう言ってやったん...
だからねー、そんなアマチュアとね、「一緒に商売は出来ねえ。」ってそう言ったんで....
これがことの起こりなんですよ。

宇野
ああ、そうですか。

圓生
えー、あんまり乱暴過ぎましてね。
それを今の幹部は、なんとも思ってないんですね。
それが「あたりまえの事」だと思ってるんですがね。
そんな事をしていると、しいては、「あの噺家は不味い」とおっしゃってるいるうちは、まだ良いと、「落語はつまらないもんだ」と、 「噺は聞いたって、君、つまらないよ。」って事になると全員みんなソッポを向ける。
こんだ、ひとりや二人上手いのが出たってもう駄目ですよ。
ソッポを向かれちゃって、落語ってものを全然お客様が聞かなくなっちゃう。
さっ、そうなれば、落語の滅びる時が来てしまう。
そうならないように、やっぱり芸は厳しくして、「これなら、まあまあ」という点まではいかなくちゃ いけないと思う。
始めっからそら上手いのはおりませんよね、なんだってそうでしょ?
七代目菊五郎が出来れば、「六代目と比べてどうだ。」ってね...そんなこと言ったって、そりゃ無理ですよね。
ですから、やはり、「でもこの程度なら。」というのがなんの芸だってあるわけですから...
それから、将来これは伸びるか伸びないかってことは大体判ってますからねー
えー、どうでしょう?私の言う事は違ってますか?

宇野
えー、ごもっともで....

圓生
そんな事で端を発したわけなんです。

宇野
まー、私が世界っていいますと、あれですねー
まあ噺家ばかりが出てるから、「なんだ宇野っていう人は、落語家のなんかかだけか?」なんて言う...そういうわけじゃないんです。
ただ私は、噺家っていうモンの生活とか戦争の前ですね。
昭和のはじめに、私が学校出てブラブラして何にも、ものにならないんで苦しんでる時に、 まあ志ん生とか、あとの志ん生になったひどい甚語楼の時分ですねー、もう赤貧洗うがごとし。
圓生さんはその時分、圓蔵っていいまして、スタイルはいいから僕は楽だと思ったら、 あとで聞くと、「もう噺家よしちゃおう。」と思って苦しんでた時代なんですって。
だいぶ、その話聞きました。楽な人だと思ってた、圓生(五代目)の息子さんですしね、スタイルはいい。
ところが、その着物がいい着物じゃなかったて言うんです、いい着物に見えましたねー

圓生
私は几帳面な方ですからね。
きちんと着物たたんで、なにしろ夏になりまして、 小千谷縮って着物がたった1枚になっちゃって、で絽の紋付羽織が1枚っきり...
で、あのー代田橋てえ処に居りましてね、京王線の...
で、あの新宿まで出ますのに、あの片道8銭かかったんですかな、それから電車が 14銭でしたかね、2,8の16のえー、なんでも30銭かかったんですよ。
そして、そのー、家内が霧を吹いて小千谷縮の着物をこーうたたみましてね、 で、ピンとしてるんですよ。
それを着て、新宿で乗り換えてその時分まだ市電でしたな、都電ではなかったかな?...
それで神田の立花という、なくなりましたな、万世の隣にありましたあそこの席に勤める。
と、お客様がね17,8人から20人ぐらいですね。

宇野
そうですね、その時分。

圓生
しかも、五代目の三枡屋小勝という、おの歳をとった、「そうでがして」ってね。
あの師匠のトリで、顔はスーッと揃って、その中へ一席勤めて一晩いただくお給金が30銭。
ワリという....そうすと往復してくると30銭、で1銭も残らない。
ただ向こうで噺を1席やってくるという、で、ただ小千谷縮の着物をこんなんなっちゃう。
それをまた霧を吹いて、たたんであくる日着てって、また着物をこんなんなって帰ってきて 30銭もらうという1文にもならない。
で、その時分にあの死んだ志ん生がね、やはりあれも、笹塚かなんかにいたんですよ、あすこに。
これがどうもね、電車賃が高いからってんで、その時分ひより下駄ってのがありましたね、あれをね履いてそして新宿まで歩くんだそうですよ。
と、歯がこれだけあったやつが、このくらい減っちゃうんですよ、そいでね、そー勘定してみるとね、 「やっぱり電車賃のほうが安いかな」ってそー言って....

宇野
とにかくそういう苦しい想いをして圓生さんも今日になった人ですねー
それからまあ志ん生も、あそこまでになりましたけれども、私は若い時分はもうその貧に耐えてたわけですね。
で、私は若い頃のうちに、ああこういう人達は、「貧乏は美徳である」ってことを教えてくれたと思いました。
それで、ただもう頭の中には自分の商売の噺っていうだけですね...
それがまあ、みんなこんにちになったんですねー
それが私のいい学問をさせてくれました。
だからぼくはねー、いろんな本も読みましたし、商売上ねー、好きですから芝居の本だの 翻訳の本だの、原書も少しは読みました。
それから古典も読みましたけども、一番身をもって自分の影響を受けたのは、まあご当人には気の毒ですけども貧に耐えていた昭和初年の 噺家でした。
ですからあれですね、「私の世界」っていう日に噺家の方にこうやって出ていただくのは 私の光栄だと思っています。

圓生
それでほら、先生の処でなんか暮かなんかに行ってお金を貰ったって....ねぇ

宇野
まあ、お金ってほどじゃないんですけどね

圓生
そしたら、一人が米を買って帰っていって、一人はその金で女郎買いに行っちゃったって...

宇野
そうなんですよ。
1円50銭やったんですね、その時分あの1円50銭で 吉原は小店で揚げたんです、1円でも揚げたらしんですね。
1円50銭だすと、路地のほうの、まあ俗に言う羅生門河岸ってんですか?
で、それを「使っちゃった。」っていうんですね、ところがその「使っちゃった。」っていう噺家のほうが、 後年、良くなりまして、米を買ったほうが駄目になっちゃったという...
だから、やっぱり噺家は、噺家になる人ってのはなんか無責任なところもまたあるんですね....
こないだも、記者会見のところで偶然にテレビで見てたら圓蔵がね、
「大臣でなけりゃ記者会見ができないと思っていたら、こうやって記者会見をして そんで副会長が舞い込んできてあたしゃもうこれでいい」って....「もう何にも言う事ない」って....
あれが、まあ噺家ですね...まとまらないんですね。

圓生
だけどあのときはびっくりしましたよ、本当に。
プリンスホテルでね、ズーっとこのマイクロフォンが並んでんでしょ...
飛行機で落っこちるかね、さもなければああいうところへは、あんまり出られない.....


宇野
まーなんかいい方にね、今度の騒動も向くようにお願いします。

圓生
どうも、えー、いろいろありがとうございます。
先生大丈夫ですか?お手をとりましょう.....いや私の方が若いので.....


..............おわり...........
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